多忙さの中では真の癒しや解放は難しいと言えます。
多忙であることは、通常は物理世界へ意識が大きく向いている状態です。
そこでは、大抵思考を主に使い、時間や周りの状況に合わせて物事を運んでいますし、そうしなければならないと思い込んでいることも多々あります。
疑うこともしませんので、大抵そのままの状況が続きます。
このような状況では内面にじっくり入り、気づくこと自体も難しいですし、何より物理世界的な観念から出ていないため、真に何が自分を苦しめているのか自分が一番求めているものは何なのか、ということを自ら気づけないようにしています。
多忙である、ということがその現れです。
多忙さの中に何を求めているのかを観なければなりません…
多忙など求めていない、というかもしれませんが、潜在的にはそれを求めているので、今の状況があるということです。
また忙しさを手放そうとしないのは、どうしてなのか、も観ることです。
真の解放の過程では、神から解放するための時間が与えられるかもしれません…
それは望んだ人にもたらされます。
特に親や社会人という立場になると得にくくなるそれも、神と共に歩み、求めれば手にすることが出来ます。
ある一定期間であっても「ただ在る」ということを認めることが出来れば、それはものすごく深い癒しとなります。
神の国に入る準備が出来ます。
これは大抵最初のうちに「苦しい感覚」がやってきますが、それを超えるとこだわるものがなくなり、真に自分自身を受容し愛せるようにもなります。