まずは基本的なこととして…
表現をされずにしまいこまれた怒りや悲しみといった感情は、長い間をかけて心身の症状、現実に影響を与えるようになっていきます。
表現をするというのは言葉で言うだけではなく、その気持ちを書いたり、絵を描いたり、楽器、躍り、スポーツといったことを通しても行うことが可能ですが、何より大切なのは感情を表現するというその「意図」を持って行うことです。
表現におけるブロックとして多いのは、「表現をすると相手に不快感を与えてしまう」という怖れですが、これは成育過程において形成される決心と関係していることが殆どです。
例えば両親が日々喧嘩していたのを見て、または親が横暴ぶりを発揮することで、自らが恐れや不安、悲しみ等を感じたとします。
そして自己を表現するとあのようにバトルが起こり、周囲が嫌な思いをすると認識します。正に自身がそう感じたように…
自らはその原因と認識した「表現をしないで生きていこう」と決心するのです。
そしてその後の人生において表現をコントロール(多くは抑圧)していきます。
成人してからも自らが表現を抑圧していることにも気づかず、また気づいても表現することに困難を覚えます。
更に怒りなどを表現をしないでいくと、ついには怒りが蓄積して爆発し、長期間溜めてきた怒りのエネルギーがそこに一気に吹き出すため、本来は最も望まなかったはずの「暴言」につながります。
結局は相手に不快感を与えるという結果になります。
元々は「親のようにはならない」という、親の行動を基準にした決心から「表現しない」という選択をしていましたが、この「親のように…」という基準で行動を決めている限り「親と同じようになる」「親と同じようにはならない」という選択はコインの裏と表で同じものです。
これはその家系において、表現上の偏りの状況を表す典型的な例ですが、この偏りを末裔の誰かが大きくバランスをとることになります。
現代にはその「誰か」がたくさん生まれています。
内面が向かう目覚めには「バランス」が必要ですが、このヒントを与えてくれるのは自らの人生経験です。
過去のことは今に凝縮されていますので、基本的に何から手をつければいいかは、現在の出来事が教えてくれます。
日々の出来事から何を感じ何を拾うのかは自らの選択です。
例えば意識が現実を創ることを頭で理解しても、このセオリーを完全に人生に望むかたちで活かすことを目指すのであれば、まずは自己の人生のテーマから始めなければなりません…
そのテーマとは正に前述したその「家系にある偏り」と関係が深いことが多いものです。
今後は「創造」という私たちの本質がパワフルに働く現実を見やすくなりますので、喉のチャクラが大きな役割を担います。
喉という場所は表現、創造、コミュニケーションと関わるため、表現のテーマはそのまま現実創造へとつながっていきます。
そういう意味でも、自己の「表現」には一度着目し、表現における制限等がないか意識してみてはいかがでしょうか…