大宇宙と小宇宙のように、マクロとミクロの存在を意識することで、気付くことがたくさんあります。
例えば人間はこの世に生まれて「死」を迎えるという「一生」というスパンがありますが、そういう意味では一日一日がそのミクロ版と言えるかもしれません…
起きて生が始まり、夜寝る時にその日…短い生が終わります。
本当の意味では時間というものはないですし、個々がこの地上での体験をするという意味では、正に毎日地上体験を終える小さな死を迎えていることになります。
また人類は皆、「悟り」に向かって転生を繰り返して来ていますが、地球での体験を終えるその終盤では必ず内面の奥深くに入って行きます。
そうして、外側の世界に頼らずに自身を満たせることを思い出すのです。
また最終的に日々の営みに必要だったのは存在そのものであったことを思い出すのです。
人生晩年にもなると目や耳、身体の機能が落ちてきます。
一つの生を「地球での全ての生の縮小版」として見てみると、晩年になればなるほど、五感や体力に頼らずに、内面で自身を満たす状態に誘われるとも言えるでしょう…
人生の終盤になって、既に内面で自身を満たすことが出来ていれば、身体機能の低下がもとで悲嘆にくれるということはありません…
逆に内面の充足により、機能面の低下は遅延することにもなります。
また一生の縮小版である一日という単位でとらえた場合も同じ傾向になります。
夜になればなるほど、身体は鎮静に向かうのが自然の摂理です。
電気がなければ(文明生活でなければ) 、活動的になるのは難しくなり、内面の世界に入るのが自然な流れです。
また、メラトニンというホルモン物質は体内時計に影響し、身体も自然に沈静の方向へとむかいます。
ですので、多くの方の活動が静かになる夜、内面を見つめたり
瞑想をするには最も適した時間となります。
例えば人は病気などで死期を認識すると、自身の一生について
考えるようになります。
そのような状況においては、この世で生きた証を何か残したいと
思うことが多くあるようです。
また人生を悔いなく終わることに意識を向ける人もいるでしょう…
人生を満足に終えるためには、今日という縮小版の生の最期に
充足した感覚を持って終わりたいものです。
もたらされている全てに感謝を捧げ、自らを祝福して終える…
そのように生きれば、マクロの一生も充足して終えることが
出来ると思います。